覚悟を決める、その瞬間に寄り添うということ

ある選手のことを思い出しながら、今こうして言葉を綴っている。
その選手は日本代表の選考会に臨もうとしていた。選考会は、多くの選手にとって長年の努力の集大成をかける場である。誰もがそこに全てを懸けて挑む。だが、その選手の場合は選考会一週間前に腰の痛みに見舞われ、思うようにプレーできない状態に陥ってしまっていた。

「痛み止めを飲んででもやるしかない」——そんな覚悟をにじませながらも、不安と期待の間で揺れる心。その姿に選手に関わる周囲の人々は、さまざまな助言を与えていた。
「初日は調整しながらプレーして二日目にピークを合わせよう」
「今日は無理せず休んだ方がいい」
「やるか、やらないか」

それらはすべて、選手を思っての言葉であった。支える者として当然の反応でもある。だが、ふと立ち止まると、そこには一つの問いが浮かび上がってくる。
——選手本人は、その言葉を受けてどんな気持ちになるのだろうか。

「やるか、やらないか」を超えて

私自身、現役時代に膝の半月板が潰れたことで軟骨が欠け、常に痛みとともに競技を続けていた経験がある。サッカーに打ち込んでいたあの頃、競技することと痛みは表裏一体であり、痛み止めを服用しながらプレーしていた。

試合の前日、休んだ方が膝にはいいのかもしれない。トレーナーやコーチも「今日は無理をしない方がいい」と言った。けれど、それでも私は自分の動きを確かめたかったのだ。前日に自分の感覚を確認できるかどうか——その小さな確認が、大切な試合を迎えるときの覚悟に直結していた。

「やらない方がいい」という事実はたしかに正しい。しかし、「それでもやりたい」という気持ちもまた真実である。
その二つの間にある微妙な揺らぎこそが、選手が生きている「リアル」なのだと思う。

だからこそ、支える側が「こうすべき」と事実だけを差し出すことは、ときに寄り添いから遠ざかってしまう危うさを含んでいる。大切なのは「事実」そのものではなく、事実に直面している選手がどんな気持ちを抱いているかに耳を澄ますことなのである。

選手の心の奥にあるもの

選考会を迎える選手にとって、その瞬間は人生の多くを費やしてきた時間の集約である。身体の痛みだけでなく、結果を求められる重圧、自分自身への期待、周囲の目——そのすべてを抱えながら立っている。

今回の選手も、「一日目は調整して二日目にピークを持っていく」という周囲の助言に頷きながらも、心の奥には「一日目から全力でやりたい」という思いを抱いていた。
「何なら一日目に良い感覚を確かめて、そして大事な二日目を迎えたい」

その言葉を聞いたとき、私はふと自分の現役時代を思い出した。やらないほうが膝には良いのかもしれない。しかし、前日それを確認できたかどうかが、大事な試合その日の迎え方や覚悟の深さを変えていく。その小さな行為が、ただのウォーミングアップ以上の意味を持つことを、自分の身体が知っていた。

覚悟を決めるための準備

選手にとって、「覚悟を決める」というのは一瞬の出来事でありながら、その瞬間に至るまでに積み重ねてきたすべての時間が背景にある。
痛みを抱えたままでも、自分で確かめたいことがある。無理を承知で挑みたいと思う瞬間がある。その選択を「危うい」と切り捨てるのは簡単である。しかし、そこに宿っているのは「自分で選びたい」という人間としての根源的な欲求なのだと思う。

支える私たちができることは、「その選択を自分のものとして引き受けられるように準備を共にすること」である。
つまり、正解を与えるのではなく、選手自身がその状況に向き合い、どんな選択であれ「これでよかった」と思える未来を描けるよう伴走することだと感じている。

そのためには、事実を伝えることだけでなく、その事実を受け取る心の余白を一緒に育てていく必要がある。どんなに正しいアドバイスも、その人が受け取れる状態になければ届かない。むしろ重荷になることさえある。だからこそ、寄り添うということは、相手の準備が整うのを待ち、一緒に整えることでもある。

信じ抜けるか

サポートの現場で最も問われるのは、結局のところ「この人なら自分の気持ちを理解してくれる」という信頼を築けるかどうかである。
それは、安易な励ましでも、正論を押し付けることでもない。目には見えない心の襞に触れながら、その人が歩もうとしている道に「一緒にいる」という姿勢を示すことなのだ。

選手は孤独である。大舞台に立てば立つほど、その孤独は濃くなる。だからこそ、その孤独の隣に立ち、「あなたを信じている」と言い切れるかどうかが、メンタルコーチとしての核心なのだと思う。

支える側が最初に問われるのは、自分自身の在り方である。選手が覚悟を決める前に、こちらが覚悟を持っているかどうか。その覚悟が、相手に伝わるかどうか。そのことを、私は今回の出来事を通じて強く感じた。

答えはひとつではない

スポーツの現場では「正しい答え」を求められることが多いかもしれない。しかし、選手の数だけ答えがある。
ある人にとっての正解は、別の人にとっての不正解であるかもしれない。だから私は、ひとつの答えに偏らず、さまざまな視点を受け入れられる柔軟さを大切にしたいと思う。

選手がどんな選択をしたとしても、その選択を肯定できる未来を一緒に育てていく。
「あなたがその道を選んでよかった」と思えるように共に歩む。
それが私にとっての「伴走」であり、寄り添うということなのである。

おわりに

今回の出来事を振り返りながら、改めて感じたことがある。
それは、メンタルコーチの役割は「正解を与えること」ではなく、「選手が覚悟を決められるように隣に立ち続けること」だということだ。

どんな状況であれ、誰よりも選手の味方であること。
そして、選手が選んだその瞬間を、心から信じ抜くこと。

その積み重ねの中でこそ、選手と共に「未来をつくる」ことができるのだと信じている。
ただ未来をつくるというのは抽象的なことではない。選手が自分で選んだその選択を、「してよかった」と心から思える未来を共に育んでいくことである。
それこそが、私がスポーツメンタルコーチとして伴走する意味なのだ。

寄り添うとは、ただ優しくすることではない。寄り添うとは、その人の選択を信じ、共に歩んでいくこと。そして、その覚悟を支えることなのである。

これからも私は、寄り添うことを追求し続けたいと思う。

スポーツメンタルコーチ加藤優輝
Deportare Design代表
Deportare Design代表。6歳から22歳までプロサッカー選手を目指していたが、燃え尽き症候群により競技を嫌いになり、プロになれずに現役引退。 その後、人命に関わる仕事に魅力を感じ、消防士になる。 消防士として社会貢献していく中で、夢や目標に向かっている人をサポートしたいという思いが沸き起こり消防を退職。 退職後、自分自身が燃え尽き症候群になってしまった原因を解明すべく、脳と心の仕組み・スポーツ科学、EQなどについて学ぶ。 その後、サッカー元日本代表でもあるカレンロバートの専属サポート。現在は、プロ野球選手(NPB)やプロサッカー選手(Jリーグ)、プロゴルファー(JLPGA)、プロサーファー(WSL)、実業団選手(日本代表)を始めとする、トップアスリートから本気でプロを目指すアスリートを中心にサポートをしている。

私がスポーツメンタルコーチになった理由

私はプロサッカー選手になるはずだった。小学校のころから夢はサッカー選手。中学生になっても高校生になっても大学生になっても、夢は変わらずサッカー選手。そんな私は、身長170㎝でゴールキーパーをしていた…>>続きはこちらから

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