社会の中で、僕たちはつい「何者か」であろうとする。
プロアスリートとして、アーティストとして、経営者として。
でも、その役割を一度そっと手放し、ただの自分として過ごす時間──
そこにこそ、人生の本当の豊かさがあるのかもしれない。
僕たちは、日々、仮面をつけて生きている。
プロアスリートは「プロアスリート」として、
アーティストは「アーティスト」として、
経営者は「経営者」として、
僕自身も「スポーツメンタルコーチ」という仮面をつけながら、人と関わっている。
でもその仮面を長くつけていると、
いつの間にか「仮面をつけていること」にさえ、気づけなくなる。
そしてある日ふと、「本当の自分って、何だったんだろう?」という疑問が胸に浮かぶ。
マルセル・マルソーという“沈黙の詩人”と呼ばれたパントマイムの芸術家がいる。
彼の代表的なパフォーマンスのひとつに、「仮面が取れなくなって困るピエロ」の話がある。
最初はただ仮面をかぶって演じていたはずなのに、
気づいたらその仮面が自分の一部になっていて、外せなくなってしまう。
そんな姿を描いたこの演目は、言葉はなくとも背筋がぞっとするような、強烈な寓意を放っている。
それはまるで現代を生きる僕たちの姿と重なるようでもある。
でも最近、ふと思うことがある。
そもそも、何者かにならなくても、いいのかもしれない。
社会は僕たちに「役割」や「肩書き」を求める。
誰かに認められたい、価値を証明したいという思いもある。
でも、実は「何者でなくてもいい」ただの自分で過ごす時間こそが、
心を整え、人生の豊かさを取り戻すために必要なのではないかと。
ごはんが美味しく感じられたり、
好きな人と静かに過ごせたり、
自然の中で深呼吸できたり──
そういった小さな瞬間に、
本来の「自分らしさ」や「幸せ」が宿っているのだと思う。
とはいえ、仮面をつけて生きることを否定したいわけではない。
むしろ、その“バランス”が大切なんだと思う。
仮面をつけて社会の中で生きる時間も必要だし、
同じように、仮面を外してただの「人」としていられる時間も必要。
そのどちらか一方に偏ってしまうことで、
人は苦しくなる。
だからこそ、僕は、
仮面を外せる“時間”と“場所”を、用意したいと。
その場所では、アスリートもアーティストも経営者も、
役割を一度そっと置いて、ただの「自分」として過ごせる。
そしてそこからまた、仮面をつけて再び歩き出すのもいい。
もしその仮面が「もう違うかもしれない」と感じたら、
思いきって、その仮面を置いていき、新しい人生を歩むことだってできる。
大事なのは、仮面の奥にいる“本当のその人自身”が、ちゃんと息をしていること。
これからの人生、どう生きていきたいのか。
どんな日々が自分にとって豊かで、どんな瞬間に幸せを感じるのか。
そういった問いに、自分自身の言葉で、静かに向き合える時間。
その答えは、誰かから与えられるものじゃない。
きっと、自分の内側から、ふと湧き上がってくるもの。
人生は、仮面をつけている時間だけでは、きっと息が詰まる。
でも、仮面をまったく持たずに生きるには、社会は少しせわしない。
だからこそ、どちらか一方を選ぶのではなく、
仮面を外してもいい時間と場所が、そっと日常に用意されていること。
それが、人として健やかに、静かに、自分らしく生きていくために、とても大切なことなんじゃないかと思う。