北アルプスの爺ヶ岳を登っていた。
静かな山道。
風の音と、足元の感触と、呼吸のリズムだけが、淡々と過ぎていく。
休んでいるときにふと、「今この瞬間に意識を向けるとは、どういうことなのか?」という問いが、身体の奥から湧いてきた。
意識が逸れたときに、足はつまずく
よく、「今ここに意識を向けよう」と言われる。
マインドフルネス、集中、フロー、ゾーン…名前はいろいろあるけれど、
それがどんな状態なのか、実際のところ曖昧なままになっていることも多い。
山を歩いていると、意識がふとどこかへ逸れる瞬間がある。
たとえば「今日はあの連絡を返さないと」とか、「明日の天気はどうだろう」とか。
そんなわずかな思考の逸れに呼応するように、
足がもつれたり、滑ったり、小さな躓きが起きる。
つまり、身体は正直だ。
「今ここにいる」とは、選ぶことではなく、戻ること
逆に、目の前の一歩一歩に意識を置いて歩いているとき、
時間がすっと透明になるような感覚がある。
そこには「努力して集中している自分」もいなければ、
「上手くやろうとしている自分」もいない。
ただ、身体が、地面と対話しているような状態。
呼吸と、重心と、視線の先にある一歩の積み重ね。
そこには余計な判断も、期待も、過去も未来もない。
言葉で伝わらないものを、感じる場として
僕はふだん、人の内側に寄り添うような仕事をしている。
その人が抱える、言葉にならない迷いや、
心のどこかにつかえたままの感情に寄り添う時間。
「目に見えない部分」を見つめる役割だ。
実際に対話する中で、「今に意識を向けることの大切さ」を伝えることも多い。
けれど、言葉だけでは届かないこともある。
だからこそ、
「今ここにしかいられない」山のような環境に身を置く体験には、
誰にとってもかけがえのない気づきの場になるのではないかと感じている。
沈黙の中で、何かが整っていく
山にいると、誰かに見せる自分ではなく、
ただそこに存在する自分として立っていられる。
大きな声で何かを語る必要もなく、
「わかってもらう」ことさえ重要ではなくなっていく。
むしろ、言葉にしきれないものが、沈黙の中で育っていく。
そしてその沈黙が、ふだんの生活の中で、
ふとした瞬間に「確かな感覚」として蘇ってくる。
山頂についたとき、こんなことを思っていた。
相手が自分の内側でふと気づきを得るような、
そんな「小さな何か」を手渡すことができたらいいなと。
それが何だったのかは、
その人自身も気づかないかもしれない。
でも、どこかで静かに、呼吸のように息づいていくもの。
言葉にしきれない何かを、
誰にも気づかれないように、そっと手渡す。
そんな瞬間をつくっていけたらいいなと思う。