プロのアスリートになる人は、ほんのわずかしかいない。
競技人口を考えれば、それは1%にも満たない数字だろう。
どれだけ努力を重ねても、どれだけ情熱を注いでも、そこに辿り着けるのは限られた人間だけだ。
その姿を思うとき、私は自然と自分自身にも問いを向けたくなる。
――では「プロのスポーツメンタルコーチ」として活躍できる人は、どれほどいるのだろうか。
おそらく、そこもまた同じだ。
「プロ」と呼ばれるにふさわしい存在になれるのは、ごく一握りの人間に限られる。
だが現実には、「プロのスポーツメンタルコーチ」と名乗って活動している人は決して少なくない。
それは悪いことではない。むしろ、スポーツ界にとっては必要な流れでもある。
心のサポートの大切さが広まり、関わる人が増えること自体は健全なことだと思う。
しかし一方で、私はどうしても考え込んでしまう。
「プロ」とは何を指すのか。
「プロである」と胸を張るために、本当に必要なものは何なのか。
「プロとは何か」という終わりのない問い
プロの定義は、人によって違う。
資格を持っていることを根拠にする人もいれば、指導した経験や実績を拠り所にする人もいる。
あるいは、報酬を受け取ることがプロの条件だと考える人もいるだろう。
けれど私にとって、そうした外的な条件だけで「プロかどうか」を測るのはどこか違和感がある。
なぜなら、それらはすべて「目に見える部分」に過ぎないからだ。
では、本質的にプロをプロたらしめるものは何か。
私はその答えを、まだ持ち合わせていない。
だからこそ、この問いを自分の中に留め続けることが大切だと思っている。
問い続けること自体が、姿勢を正してくれる。
「いまの自分は、プロと呼べるだけの在り方をしているだろうか」
「選手の信頼に足る存在でいられているだろうか」
その確認を怠らないことが、私にとっての「プロ意識」なのだと思う。
選手に映し出される、自分の姿勢
私が関わる選手たちは、みな一様に自らの限界に挑み続けている。
敗北を経験し、挫折を味わい、それでも競技に身を投じる。
その姿は、ときに儚く、しかし同時に圧倒的な美しさを帯びている。
彼らを支える立場にいると、私自身もまた試される。
言葉をかけるとき、沈黙を共にするとき、どんな小さな瞬間であっても、その一挙手一投足に私の覚悟が問われているように感じる。
プロであることは、知識や技術を持っているというだけでは成り立たない。
むしろ、態度や在り方の中にこそ、その人の真価は現れる。
一見何気ないやりとりの中に、こちらの誠実さや本気度がにじみ出てしまうのだ。
選手は敏感だ。
どんな小さな妥協も、惰性も、必ず感じ取る。
だからこそ、自分自身を磨き続けることをやめてはいけない。
周りと同じことをしてはいけない理由
私は「プロ」として活動していきたいなら、周りと同じことをしていてはいけないと思っている。
それは、目立つために特別なことをするという意味ではない。
むしろ逆で、自分の中の基準を徹底的に高く保ち続けるということだ。
アスリートは皆、それぞれの方法で自分を高め続けている。
技術を磨き、身体を鍛え、精神を整え、競技に人生を懸けている。
その真剣さと同じ熱量で、私もまた「スポーツメンタルコーチとしての自分」を磨いていかなければならない。
そこに近道はない。
ただ日々の積み重ねだけが、自分を形づくっていく。
それを怠れば、たとえ表面的に「プロ」と呼ばれていたとしても、その実態はすぐに見透かされてしまう。
「問い続ける」ということの意味
結局のところ、私にとってのプロ意識とは「問い続けること」なのだと思う。
――いま、自分は誠実に相手と向き合えているだろうか。
――この時間を、相手の人生にとって意味のあるものにできているだろうか。
――自分自身の姿勢は、プロと呼べるだけのものになっているだろうか。
答えが見つからないことの方が多い。
むしろ、明確な答えなど永遠にないのかもしれない。
けれど、その問いを抱き続けることこそが、プロとしての自分を支える芯になる。
それは、選手が日々トレーニングを重ねるのと同じだ。
目に見える成果がなくても、積み重ねの中で確実に身体は変わっていく。
問い続けるという営みもまた、静かに自分を変えていくのだと思う。
選手と対等に歩むために
私が目指しているのは、「選ばれるスポーツメンタルコーチ」になることではない。
もちろん、トップアスリートから選ばれれば光栄だし、その責任の重さも感じるだろう。
だが本質はそこではない。
大切なのは、選手と対等に歩み続けることだ。
対等とは、同じ立場になることではない。
お互いに本気で向き合い、それぞれの役割を引き受けながら、同じ方向を見つめることだ。
そのためには、こちらが「プロであり続けること」が絶対に欠かせない。
そうでなければ、信頼という橋は架からない。
在り方で示すということ
プロスポーツメンタルコーチとしての生き方は、肩書きや言葉で示されるものではない。
むしろ、言葉にしきれない部分にこそ、その本質は宿る。
選手に対して、どんな姿勢で立つのか。
沈黙の中で、どれだけ相手に寄り添えるのか。
その積み重ねが、静かに相手の心に息づいていく。
そしてそれは、成果や数字には表れにくい。
けれど確かに、選手の人生の一部を支える力になっていると信じている。
生き方としてのプロ意識
結局のところ、私にとって「プロである」ということは、仕事の肩書きを超えたものだ。
スポーツメンタルコーチは職業であると同時に、生き方そのものでもある。
日々の態度、関わり方、問いの持ち方。
そのすべてが、自分を形づくり、選手との関係をつくっていく。
だから私は、「プロであること」を仕事としてだけでなく、自分の人生全体として引き受けたいと思っている。
それは決して派手な道ではない。
むしろ地味で、時に孤独な道かもしれない。
けれど、その道を歩き続けることにこそ、私の生きる意味があるのだと思う。
おわりに
プロのアスリートは、人生を懸けて競技と向き合い続けている。
その姿を前にして、スポーツメンタルコーチである自分が中途半端であっていいはずがない。
プロであるとは何か。
その問いに答えはない。
けれど、問い続けることでしか辿り着けない在り方がある。
私はこれからも、その問いを抱きながら歩き続けたい。
それが、プロスポーツメンタルコーチとして生きるということだと信じている。