選手にとって、負けはやっぱり悔しいものです。
勝つためにやっているのだから、負けを前向きに受け止めようとしすぎる必要はないと思います。悔しいものは悔しいし、できれば負けたくない。その感覚は自然です。
ただ、競技を見ていると感じることがあります。
それは、ただ負ければ成長するわけではないということです。
負けたから学べる。
負けたから強くなれる。
そう言われることは多いけれど、実際には、どんな負けでも成長につながるわけではありません。
逃げたまま終わった負け。
出し切らないまま終わった負け。
ごまかしたまま終わった負け。
そういう負けから得られるものは、どうしても少なくなりやすい。
なぜなら、見直すべきことが技術や戦術の前に、まず「その試合で本当に向き合えていたか」というところで止まってしまうからです。
だから私は、選手を強くするのは単なる敗戦ではなく、いい負け方なのだと思っています。
そして、いい負け方には前提があります。
それは、その試合で自分の持っているものを出そうとしたかどうかです。
怖さがあっても、勝てる保証がなくても、その日の自分なりに勝負しようとしたか。
不安があっても縮こまりきらず、出せるものを出そうとしたか。
最後までごまかさずに、自分の競技と向き合おうとしたか。
そこがあって初めて、負けは成長につながるものになります。
ただ負けたことに意味があるのではなく、出し切ろうとしたうえで負けたことに意味がある。
私はそう思っています。
有名な言葉に、
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」
というものがあります。野村克也さんが大切にしていた言葉として広く知られていますが、とても本質をついた言葉だと思います。
勝ちは、ときに流れや勢いに助けられることがあります。
内容が万全ではなくても勝てる日がある。課題が残っていても、相手とのかみ合わせや試合展開によって結果がついてくることもある。だから勝ちの中には、見過ごされるものが紛れていることがあります。
でも、負けには理由があることが多い。
技術かもしれないし、準備かもしれない。判断かもしれないし、気持ちの揺れかもしれない。もちろん勝負の世界だから理不尽な負け方もあるし、どうしても割り切れない試合もあると思います。それでも負けには、見なければいけない何かが残ることが多い。
だから負けは、選手に現実を見せます。
今の自分に何が足りなかったのか。何を怖がっていたのか。どこで逃げたのか。何を準備しきれていなかったのか。そういうものが、負けた試合の中にはよく表れます。
ただし、その負けが意味のあるものになるかどうかは、結果の前に、その試合でどう立っていたかにかかっています。
全力を尽くしたか。
自分の持っているものを出そうとしたか。
苦しくても勝負することをやめなかったか。
そこがないまま負けたとき、残るのは競技力の課題というより、向き合いきれなかった感覚です。
もっとやれたはずだった。
あそこで引かなければ違ったかもしれない。
出せたものを出さなかった。
そういう後悔が強く残る負けは、たしかにつらい。
そしてその負けから得られる気づきは、どうしても浅くなりやすい。
一方で、出し切ろうとした負けは違います。
もちろん悔しいし、苦しいです。届かなかった現実は重いし、しばらく引きずることもあると思います。でも、その負けには次につながる材料があります。
通用したことが見える。
足りなかったことが見える。
今の自分の現在地が見える。
試合の中で、自分が何に揺れたのかも見える。
そういう負けは、次の練習を変えます。
次の準備を変えます。
次の向き合い方を変えます。
いい負け方というと、きれいに負けることのように聞こえるかもしれません。
でも、そういうことではありません。負けたあとに冷静でいようとか、前向きな言葉でまとめようとか、そういう話ではないと思っています。
悔しいものは悔しい。
情けないものは情けない。
腹が立つこともあるし、何も考えたくなくなる日もある。
それでいいと思います。
でも、その悔しさの中に、確かに「出し切ろうとした」という感覚がある負けは、ただの敗戦では終わりません。
全力で向き合った。
今の自分の持っているものを出そうとした。
怖さはあったけれど、それでも勝負しようとした。
そういう負けには、苦しさの中にも確かな意味があります。
成長する選手は、負けない選手ではないと思います。
負けを自分の競技の材料に変えられる選手です。
ただし、その材料になるのは、向き合った負けだけです。
出し切ろうとした負けだけです。
そこを通っていない負けは、ただ結果がついただけで終わってしまいやすい。
競技をしていれば、負ける日は必ず来ます。
どれだけ優れた選手でも、勝ち続けることはできません。思い通りにならない日もあるし、力を出し切れずに終わる日もある。そんな中で、負けること自体を必要以上に恐れてしまうと、選手はだんだん小さくなっていきます。
失敗しないように。
崩れないように。
負けないように。
そうやって守りに入るほど、自分の持っているものを出せなくなることがあります。
でも本当に怖いのは、負けることそのものではなく、何も出さずに終わることなのかもしれません。
出し切ったうえで負けることは苦しいです。
でも、その負けにはまだ先があります。
次につながる余地がある。
自分を深くする余地がある。
積み直すための土台が残る。
一方で、出し切らずに終わると、その負けは自分の中で閉じません。
「あそこでやれていたら」という感覚が残り続ける。
結果だけでは整理できないものが残る。
だから余計につらいのだと思います。
いい負け方ができる選手は、負けを美化しません。
でも、雑にも扱いません。
悔しさをごまかさず、現実からも目をそらさず、何が足りなかったのかを見ていく。
そのうえで、自分はこの試合で本当に出そうとしたのか、自分の持っているものを懸けようとしたのかを見つめる。そこに「はい」と言える負けなら、その敗戦はきっと無駄ではありません。
競技人生を振り返ったとき、自分を変えた試合は、必ずしも勝った試合とは限りません。
むしろ、本当に自分を変えたのは、出し切ろうとして、それでも届かなかった試合だったということは少なくないと思います。
あの負けがあったから、準備が変わった。
あの負けがあったから、自分の弱さをごまかせなくなった。
あの負けがあったから、競技への向き合い方が変わった。
そういう試合は、選手の中に深く残ります。
だから、勝つことだけを見て競技をしなくていい、ということではありません。
勝ちは目指していいし、目指すべきです。
ただ、その過程で負けたときに、自分の中に何が残るかはとても大事です。
全力で出そうとしたか。
怖さの中でも勝負したか。
ごまかさずに向き合ったか。
その土台のある負けは、選手を強くします。
いい負け方をどれだけ生み出せるか。
それは、どれだけ本気で自分を出そうとしたかの積み重ねでもあります。
勝ったか負けたかだけでは見えない成長がある。
そしてその成長は、出し切ろうとした負けの中から生まれてくるのだと思います。

